2018/08/17

特別展 縄文 〜 1万年の美の鼓動

東京国立博物館 平成館で開催中の縄文展に行ってきた。
お盆休みで都内はすいてるかと思いきや、平日でもチケット売り場から長蛇の列。
中に入ると、平成館の前に行列はなかった。
ちょっとほっとする。

第1会場は、土器を中心とした展示。
日本国内のさまざまな場所でみつかった土器や宝飾品など。
土器の白眉は「火焔型土器」であるが、そこに至るまでの素朴な「用」のための器から、徐々に装飾の楽しみを見出していく様子がよくわかるようになっている。
3章では海外のイラクやシリア、パキスタンから出土された壺や椀の紹介。
これらは、彩色であり、縄文のような土の立体感で模様をつけるものとは全く違うことに改めて気づかされる。

また、火焔型土器は、新潟県十日町に集中しており、一人のまたはその周りの数人のみで作られたようだ。
持ち手やぶる下げるための突起が、どんどん発展して炎の飾りのようになって。
作り手の喜びが見えるようだ。

第2会場は、目玉である国宝の土偶がすべて見られた。
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このポスターにある6点が縄文時代の国宝。

ひとつひとつが透明なケースに入れられ、360度からみられるように工夫されている。
以前にも土偶はみたことがあったが、「中空土偶」と「合掌土偶」は初めてみたと思う。

「中空土偶」の可愛らしくユーモアのあるお顔は、会場でも大変人気があった。
一通り見終わっても、もう一回みたくなる可愛さなのだ。

あとはスタイリッシュな「縄文の女神」
すらりと伸びた脚、ひきしまったボディ。現代アートとしても十分な造形美にうっとりする。
土偶は、女性をかたどったものが多く、女性そのものが神聖なものだったように思う。
命を育む存在として、大切にされていたのだろう。

動物をかたどった土器や、子どもの足型をとったものとか、見ていてほほえましいものもたくさん。
教科書で一度は見たことがある、ゴーグルをかけているような「遮光器土偶」も。

今のように、インターネットはおろか、電気もガスも自動車もなかった時代だけど、小さな幸せや楽しみはあったのだなと思う。
今の私たちがみても、すてきだと思うものが、使われて大事にされていて。
この温かみのある作品たちは、見ていると癒される不思議な力も持っているようだ。
それは、作品の中に、「祈り」、尊い精神を感じるからなのかもしれない。

【特別展 縄文 〜 1万年の美の鼓動】
東京国立博物館 平成館
9月2日(日)まで (月曜日休館)

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2018/04/07

【ART】ミロコマチコ いきものたちの音がきこえる

画家であり、絵本作家のミロコマチコさんの個展が世田谷文学館で開催中である。
会期明日までのところ、今日みてきた。
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階段のパネルも絵で飾られている。
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会場を入るとかなり人が混み合っていて、親子連れが目立つ。絵本からのファンが来ているのだろうか。

タイトル通り、ほとんどが動物やら鳥やら「いきもの」の絵だ。
その迫力、色に一気に引き込まれた。

これは、そのーあれだ。子どもの絵だ。

見た生き物の目がでっかかった。鼻がビヨーンと長かった。足がずどーんと太かった。
それを感じたまま描いたんだ。

デッサンのバランス? 何それ食べられるの?
生々しくて、力強くて。

あたしね、死んでたよ。
生きてなかったんじゃないの?

心臓マッサージしてくれたよ。

ドンドコドンドコ、アフリカの太鼓のリズムが聞こえる。
ドンドコドンドコ、心臓が打ち出す。
鮮やかな色彩と、のびのびした造形と。ドキドキ笑い出したくなる衝動。

あー面白かった!!

感じた強さがデフォルメになる。その驚きが伝わる。
自分がいかにちんまりまとまっていたか、恥ずかしくなった。
私の中の、固まっていた何かをほぐしてくれた。

展示会内は撮影禁止だったが、ホワイエにライブペイティングで描いた数点が飾られているので参考に。
こんな画風。
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この野生を持ち帰りたくて、絵本も買っちゃった。
何枚かの原画も会場にあったのだ。
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『けもののにおいがしてきたぞ』

売店も大人気。明日まで。野生の力で目覚めたい人よ、行けるなら急ぐのだ。

【展示情報】
開催日時:2018年1月20日(土)~2018年4月8日(日)
開館時間:10:00~18:00
場所:世田谷文学館

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2018/02/11

【ART】YOSHITOMO NARA DRAWINGS:1988-2018 LAST 30 YEARS

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元麻布クレストビル地下1階のKaikai Kiki Galleryにて開催中の「YOSHITOMO NARA DRAWINGS:1988-2018 LAST 30 YEARS」を見に行った。ここのギャラリーは初めて来たが、展示室は2部屋。ひとつは靴を脱いで上がる。(くつ下穴注意!笑)
写真OKというのでたくさん写真を撮ってきた。制作年のプレートとともに、制作順に奈良美智のドローイング作品が一望できる。

息するように描いていた 

と展示会パンフにあるように、段ボールや封筒の裏など、身近にある紙を文字通り手あたり次第手にとっては、描き散らかしたような自由さに満ちている。
のちにいくつか、美術館でみかけたモチーフの断片もある。
奈良さんは1959年生まれなので、29歳から58歳までの作品ということになる。

1989年 ドイツ留学時代
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2000年ドイツから日本へ帰国前後。おなじみの少女の作品が増えてくる。
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2011年震災以降。
私が初めて奈良さんの大規模な個展を見に行ったのは、2012年夏に横浜美術館で開催された「君や僕にちょっと似ている」だった。この個展をきっかけに、以前と奈良さんの作品の見方が変わった。
作品から祈りを感じた。
少女のモチーフは、奈良さんの感情の入れ物だ。感情に一番ふさわしい形をとったのだ、と初めてわかった。
(うーんと。「感情」という言葉だとちょっと違うかも。伝えたいものとか、湧き上がるものとか、そういうもの。)

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制作年のプレートを見ながら、自分は何歳だったか、とか何をしていたか、と思い出す。
たぶん同じニュースを聞き、同じ事件を見て、同じような経験もしている。
完全に違う時代を生きて、もうとっくに死んでしまった作家ではない。
私と、同じ時代に生きる現代作家ならではの共鳴が起こる。
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額装されない小さな作品は、テーブルの上にびっしり敷き詰められている。
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いいぞ、いいぞ。戦ってる。そうね、たぶん自分と。
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2018年最新作
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奈良さんからのメッセージの最後は、次の言葉だった。

「冷凍保存された俺の気持ちたち、久しぶりだな! でも解凍はしない! お前たちの仲間を増やしていくだけだ」

解凍しない、という意志。そこにそのときに刻み付けたものだからだろうな。
過去をまるごと受け止める。そして自分は次の新しい一歩をすすむのかな。
私も、解凍しないいまを、凍りつけたもの、もっと無心に書いていいんだなって思えたんだ。

3月8日(木)まで
11:00-19:00 (日・月・祝休み)
入場無料

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2017/11/12

【没後30年 回顧展】 澁澤龍彦 ドラコニアの地平

世田谷文学館で開催されている、澁澤龍彦没後30年の展示を見に行った。
美術展は、「日曜美術館」とか「ぶらぶら美術・博物館」みたいなTV番組でもよく紹介されるが、こういう文学系の地味な展示は紹介が少ないと思う。
世田谷文学館は、地道にいい展示をしてくれる貴重な場所だ。
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澁澤龍彦は、フランス文学者、作家、批評家であるが、なんといってもマルキ・ド・サド著『悪徳の栄え』の翻訳、発禁の「サド裁判」で有名になったことで知られている。
今回の展示は、

300点を超える草稿・原稿・創作メモの自筆資料、愛蔵の美術品やオブジェ、和洋の蔵書などから表現活動の背景と博物誌的魅力に迫る。
パンフレットより引用。
サドにとどまらない、豊かな「ドラコニア」(澁澤の造語)の世界を見せてくれた。
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入るなりたくさんの自筆原稿が並んでいて、じっくり読んでいると意外と時間がかかるので、余裕をもって訪れてほしい。澁澤氏は、鉛筆で原稿用紙に書いているのだが、たくさん吹き出しの修正をいれていて、消しゴムは使わない主義のようだ。おもしろいのは、最初の筆が鉛筆で、直しが万年筆なこと。
普通逆ではないのかな?
手書きの文字は、思いのほか読みやすく、修正内容も明確で、より分かりやすいように修正している。
個性的なひとだとは思っていたけど、生原稿からはすごく誠実な印象を受けた。

旅行記もたくさん出されていて、龍子夫人や友人との写真もたくさんあった。
サングラスやパイプを片手に、なかなかのかっこよさ。

イラストや、自ら自著の装丁もされていたようで、そこも興味深かった。
自分の世界観を装丁に反映したいという気持ちは、痛いほどわかる。

書棚の大量な書物、地球儀、球体人形、凸面鏡、リトグラフなど、その博識と偏愛かげんがなんとも魅力的である。

たくさんの友人との手紙も展示されており、たとえば本を送ってくれた礼状など、きさくで温かな人柄が伝わるものだった。
今の作家が亡くなっても、こんなふうな手書きの手紙なんて残されてるのかな、なんて思った。
若い人はとくに、手書きの手紙を書く人も少なくなってるような気がして。

たっぷり鑑賞し、文学館を後にして、出た一言は、
「かっこいい!」
でした。
『幻想美術館』と『石の夢』は読んでみたい。

開催期間:2017/12/17(日)まで 10:00-18:00 (月曜休館)
11月24日は、朗読を楽しむ会のイベントもあるようですよ。こちら申し込み不要・入場無料。
世田谷文学館イベント

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2017/09/15

【写真展】荒木経惟 「センチメンタルな旅 1971-2017-」

東京都写真美術館、総合開館20周年記念の展示会は、荒木経惟の妻「陽子」をテーマにした作品展だった。
荒木経惟、通称アラーキーの写真は、いろんなテーマがあるがやはりヌード写真の印象が強い。
女の裸に対する男の欲情は、女のわたしにはわからないんだろうなと思う。

でも、アラーキーの妻陽子さんの写真は昔から好きだった。陽子さんが早逝したことも、大変うつくしい人だったことも知っていた。今回、陽子さんの展示だったから、これはいかねば、と思った。

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最初のプロローグと、センチメンタルな旅のコーナーは、二人が恋人だったころから新婚旅行の写真によって綴られた写真群。
若き日の陽子さんが、私の印象をくつがえすようなまなざしで驚く。
なんというか、まるで捨て猫みたいなのだ。
あんたを信じていいの? あたしを好きなの? とカメラを睨み付けてくる。
これが恋人同士の、妻の写真なんだろうか。
それくらい、陽子さんはびりびりにとがっていた。

陽子のメモワールは、1960年代から80年代の一番輝いている陽子氏のポートレイトがひしめく。
うつくしくてエロチックで魅力的だ。

一番の圧巻は、静かな「冬の旅」という陽子さんの最後の誕生日、1989年5月17日から、闘病生活から亡くなる1990年1月27日、葬儀後の2月1日までの日付入りの写真たち。
仲間たちとおどけた誕生日パーティーに死の影はない。
しだいに病室らしい写真、握り合う手、空、と日付が進んでいく。
それが、怖くて切なくて、観ていて、体に鳥肌と震えがきた。
まるで抽象画のように、写真は一部しか映してないのに、心が伝わる。

風景の一枚が、限りなく悲しくて。

納棺され、あふれんばかりの花の中瞑目する陽子さんは、若くうつくしすぎた。
葬儀を終えた夫の様子、誰もいない空間。
嗚咽をかみころした。
写真で、こんなに感情を揺さぶられたのは、初めてかもしれない。

遺作空2、はアラーキー自らに忍び寄る死の影を表現したものという。
モノクロの空の写真に、鮮やかなアクリル絵の具が踊る。
色彩も形も、みごとな心象風景となって、手法の斬新さもあり、とても印象的だった。素晴らしかった。
心の揺らぎ、葛藤、屈折が、ぐいぐいとした線に託されていて。

三千空は、自宅のバルコニーから撮影された空の写真をスライドショーとして映像で流していた。
同じ屋根や同じ木々のシルエットをフレームにして、空はさまざまな色や形を描く。
ひとつところにいても、こんなに素晴らしいものに出会える。
あなたは、気がついているのですか? と問われている気がした。
同時に最愛の妻を失い、どこへも行けずひたすら空を眺めているアラーキーの姿も目に浮かぶよう。
空の変化が、彼を再生させたのだろうか。

家族の一員の愛猫、チロのポラロイド写真200点。
ほとんどが、チロの顔のアップ。顔から、いろんな表情をくみ取ろうとしたのかな。
またチロはなんとなく、陽子さんにも似ているようだ。
やせ細った体といい、媚びない表情といい。

そのほか、古き昭和の東京の風景が切り取られた写真もよかった。
生活のにじみでているもの、古びているもの、人間の臭いがするものがちゃんとすくいあげられている。

今は誰でも気軽に写真を撮ってアップできる時代。
しかも簡単に加工までできる。

だけど、ここで見たアラーキーの写真は、ネットで見かけるいわゆる「見栄えのいい」写真とは全く異なるものだった。
もっと生々しくて、人間くさくて、温かいものだった。
そして写真の中から、多くの心象風景を語り掛けてくるものだったんだ。
わが愛、陽子。
愛の記録だった。

恵比寿ガーデンプレイス内 東京都写真美術館
9月24日(日)まで。
めちゃくちゃおすすめです。

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2017/08/15

【演劇】ミュージカル『にんじん』鑑賞

年に4回ある都民半額観劇会に申し込み、抽選に当たったので新橋演舞場へ『にんじん』観劇。
原作は、児童文学のジュール・ルナールが自分の子供のころの思い出をもとにして書いた、半自伝的な物語。
主演・大竹しのぶ。
大竹しのぶの舞台に興味があった。

(以下ネタばれありますので、知りたくない方はすすまないでください)

舞台はフランスの片田舎。
『にんじん』には、赤毛でそばかすの少年が主人公で、赤毛のため、家族からも名前を呼んでもらえず、「にんじん」と呼ばれている。
にんじんも、父や母のことを、「ルピックさん」「ルピックさんの奥さん」と呼ぶ。

母には兄弟で一人だけ、いつも雑用をいいつけられ、大好きなメロンももらえず、悪いことがあるとすぐにんじんのせいにされ、激しく叱責され、ぶたれたりする。
家族は、もともといい家系だったらしいが、戦争から帰った父もろくに働けず、お金に苦労してる様子。
全体的に、ギスギスしていて、夫婦の間も会話がない。

誰にも愛されていない、寂しさと苦しさから、何度か自殺をはかろうとするにんじん。

これが子ども向きの話なのかなと思ってしまうくらい、テーマは重くて、暗い。
家族だけではなく、村の人からも、にんじん、嘘つき、怠け者、と悪口を言われてる様子。
前半は、そんな状況で終わる。

大竹しのぶのにんじんは、14歳のふてくされた子どもの様子、死んだネズミや蛇をポケットにいれて、いじわるな兄に反撃するニヤニヤした感じが、可愛らしい。思ったより小柄な人だった。
昔から、どこか乗り移ったような演技をする人だと思っていたが、にんじんもそんなふうだった。

お手伝いアネット役の真琴つばさは、にんじんに死んだネズミを握らされても、動じない明るい人柄。
家族のギクシャクに気づきながらも、にんじんに心を寄せる様子。
真琴つばさは、セリフ回しも歌も、踊りも、宝塚のトップスターというのはやっぱり凄いな! と思わされた。
声の響き方、届き方、歌の力強さ、が抜きんでている。コミカルな芝居も上手。

名づけ親役の今井清隆さんは、めちゃくちゃ声がいい。セリフも歌も聞きやすくよく響き、うっとりするイケボー。

ルピック夫人のキムラ緑子は、にんじんを虐待している一方、虐待をやめられないことに苦しんでもいる。
冷たい夫や、傾いた家計、家柄だけはいいので体面をつねに気にする生活に疲れ、イライラしている。
姿勢の良さと、気位の高さ、冷たい神経質な役どころにぴったりはまる。

兄のフェリックス(中山優馬)は、母からの溺愛を受けつつも、いろんな狡さを身に着け、にんじんに罪をなすりつける嫌なやつだ。物語の最後まで改心することはなく、それでも彼も冷たい家庭に不満を持っている。
ジャニーズのアイドルもとことん嫌な役どころで頑張るのだね。

後半、誰かがにんじんを救うのかと待っていると、「姉の結婚式に出るな」と命令したのにやってきたにんじんをしかりつけた父だった。
父もまた、常に世間体を気にして、「にんじんが自殺したら、世間様になんといわれるか」と口にするようなダメ親だ。
しかし、にんじんが、結婚式から抜け出して、また首吊り自殺しようとしたところを、止めた。
「お前の心に寄り添えなかった」とやっと正直に告白する。「お父さん」「フランソワ」と呼び合う。
この人も闇を抱えていたのだ。

甘やかされていた兄のフェリックスも、家や田舎に飽き飽きして、家の金を盗んでパリに家出する。

にんじんが出した答えは、悩んだり、不幸だと思っていたのは、自分だけじゃなかったと知ったこと。
その中で、がんばってみようと、自分で決めたこと。
休暇が終わり、また一人、寄宿舎生活に戻るところで、舞台は終わる。

意外とテーマが重くて、あまりいい人がでてこなくて、それぞれの人間の苦悩みたいなものを描いている作品だった。
子どもを愛するには、まず大人が幸せじゃないといけないのかもと思ったり。
分かっていても、虐待してしまう母親からは、離さなきゃいけないとか。
この作品を子どもが見たら、どんな感想なんだろうな。にんじんに同情して、にんじんを応援したくなるのだろうか。
にんじんは、いつも母や兄からぬれぎぬを着せられていたが、自身では盗んだり、嘘はついてなかった。
周りが信じてなかっただけだ。
本当のことは、隠れていることがあるね。それをちゃんと見た目だけで判断してないかな。
そんなメッセージも、赤毛とそばかすにはあるのかもしれない。

原作も、あらためて読んでみたいなと思った。

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2017/07/12

甘雨×葉花「蝶花・てふてふやはなや」展 887書道WS

書家であり、五行歌人でもある甘雨さんのミニ個展へ。(2017/06/27-7/9)
渋谷区富ヶ谷のお花やさん「葉花」はレイアウトがとてもおしゃれでジャングルクルーズか宝さがしか。
ディスプレイのあちこちに、甘雨さんの作品が調和して飾られていた。

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Habana2

すでに先客がサラサラと何枚も作品を生み出しているのを覗いてみると、美しい発色の墨を使っていた。
ふわーっと淡い紫系の墨で、線が重なると色味がグラデーションになる。
なんてきれいなんだろう。
「しづくさんもやってみませんか」と言う甘い囁きにクラッとして、ワークショップにやってみることに。
「花」というお名前の墨を擦り、筆を手にした。

私は小学生から高校生まで10数年いわゆる書道教室に通っていた。
そこでは、先生のお手本を横目に見ながら、練習するもの。
主に楷書で、後半は行書も書いた。

今は筆ペンでたまに手紙を書くくらい。
本物の筆は、久しぶり。
いくつかの筆を試して、自分はベースに楷書があるので、そこからなかなかぬけだせないなぁと思っていた。
「じゃあ、それを崩してみましょう」みたいな流れに。
柔らかい筆や、繊維をほぐしたような筆を試す。

なんとなく単調な感じ。甘雨先生にみてもらって、アドバイスをいただく。
大きさの変化、掠れや滲み。空間認識。リズム。

書いてるうちに、これはデザインに似てるなと思った。
どんな配置、どんなフォント、配色、余白の取り方。
「字じゃないみたい!」とついつぶやいてしまう。

すると、甘雨先生が、「私は、技術的なものは伝えることができるけれど、文字の意味や心が反映されるのは、その人それぞれの持ってるものだ」といったようなことを話してくれて、あぁそれも同じだなと思った。
改善点をアドバイス頂きながら、仕上げた最終形は、こちら。雅印も押した。
ちょっと紙がしわしわなのはご愛敬(^^;;;
滲みと、かすれとを入れてみて、堅苦しさから少しゆるんだような?

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だがしかし。あれ、もっとたおやかな字が似合ってる作品なのに、男らしくなってるよ?
甘い紫の墨を選んだのに、あれれ。
まだまだ少ししか遊べてないけど、工夫して作品として仕上げていく過程が、とても楽しかった。
甘雨さんの作品の凄さもより感じられるようになった。
いい時間を過ごさせて頂いた。
ありがとうございました😊


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2016/10/23

東京国立博物館特別展「禅」

上野へ夫とアート散歩。
東京国立博物館 平成館で開催中の「禅」へ。

おりしも上野公園周辺では、「数奇フェス」が開催されていて、いろんなイベントがあった。
東博へ歩いていく噴水広場にも、芸祭神輿のすばらしい展示も鑑賞できた。
TOKYO数奇フェスは、今日10月23日まで)


先日、「マインドフルネス」のTVを見ていた。瞑想を含む認知療法として知られていて、心のバランスをとりもどし、ストレスに対処するメソッドというところだろうか。
これも、「禅」の精神をルーツとする。
今回の展示は、国宝や重要文化財も多く出品してるとあり、見に行ってみたのだ。

この特別展は、臨済禅師1150年、白隠禅師250年記念というように「禅」の始まりからたどれるように構成されていた。
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入場して最初に迎えてくれるのは、有名な白隠慧鶴の「達磨像」。チケットのデザインにも使われている。
かなり大きな作品で圧巻。
展示の目玉を最初にばーんと出した構成もなるほどねーと思う。
後の方で、慧鶴の容姿が、この達磨に似てることもわかってくる。

ダルマといえば、張り子の置物とか、「だるまさんがころんだ」という遊びのイメージだが、禅宗開祖の偉い人だったのですよ。したがって、達磨の掛け軸がたくさん。
特徴的だったのは、一般に寺院にあるのは、いわゆる仏像のイメージだが、この展示には、臨済禅の祖となる人物の像がたくさんあったこと。どれも精巧な立派なもの。全て椅子に座り、くつを脱いで座禅姿なのも面白い。

古文書の国宝ものが多かった。歴史的な価値という意味で選ばれているようだった。
いろんな教えを書いたもの、書いた人が有名な人、などいろいろあるが、筆運びとか文字の形は必ずしも整っているものは少ない。内容が大事なんだろう。
ときどきいいなぁというものがあって、それは伸びやかで、書いているのが気持ちいいだろうな、という筆の運びだった。文字を書いて、一番気持ちいいのは、きっと筆なんだろうなと思う。
自分も、ずっと書き続けていれば、自分だけの気持ちのよい味のある字にたどり着けるんだろうか、と夢想する。

後半の第五章 禅文化の広がり、に行くとやっとほっとするというか、肩に力をいれずに楽しめるものが多く並ぶ。
お道具類や工芸品も、数は少ないがよいものが並んでいた。
国宝「油滴天目」はあまりに有名だが、もう一つの国宝「玳玻天目」は鼈甲発色の大変うつくしいものだった。どうやったら作れるのだろう・・・はぁ・・・。

伝牧谿筆「龍虎図」は、若冲や等伯にも影響したと言われるらしい。実際、虎が若冲の虎によく似ていた。
雪村周継筆「瀟湘八景図帖」には息をのんだ。墨絵なのだが、遠近感と強弱の巧みさ、何よりほんとうに美しかった。
狩野探幽や伊藤若冲の障壁画もあり、安定の見事さ。

展示の最後に、座布団が三つならんでいて、紅葉の庭の写真が飾ってある。
座禅の体験コーナーだった。
ためしに、少し座ってみた。
いつの時代でも、心を静めて立ち止まる、というのは、自分自身を取り戻す、大切なことなんだなと思った。
わたしも時々、マインドフルネスを実践してみたい思った。

11月27日まで。

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2016/09/18

くるり 「東京」の衝撃

9月9日(金)私が毎週楽しみにしている、生放送の歌番組「ミュージックステーション」(Mステ)に「くるり」というバンドが出演した。
くるり結成20周年記念オールタイムベストアルバム『くるりの20回転』が発売になることと、そのベストにメジャーデビュー曲の「東京」が入っていることから、この日のパフォーマンスになったのだろう。

くるりの曲は、ボーカルの岸田繁さんが書いてること、3人くらいのロックバンドなことくらいしか知らなくて、思えばまともに曲を聴く機会がなかった。
すっかり大人の顔になり、ベースの佐藤さんは白髪になり、曲を聴き始めた私は、すっかり魅了されてしまった。
ああ、なんてすごいんだ!
終盤の佐藤さんの「パーパーパッパパー」のコーラスも驚きをもって聴き入った。

その後youtubeで10年前の音源を見つけ、何度も聞いた。
ああ、でもなんかね、負けてないよ。今も。

私の脳は、しばらく、「東京」の無限ループ状態になった。それまではbump of chickenの「ひとりごと」とかバンプの曲ばかりだったのに、塗り替えられてしまった。(バカだねぇ)
何がこんなにいいのか!
感じてるものをむりやり言語化すれば、それは「叙情」だと思った。
この曲にある、胸をかきむしりたくなる叙情!

ほんとの岸田さんの書いた詩の中身が分かるかと言われると、自信がなかった。
簡単に「分かる」というのは、安易すぎると思うから。
(当然ながら、歌詞だけじゃなく、メロディーと演奏技術の合わせ技が生みだしてる)

でも、生まれた東京から、地方の大学へ進んで、東京の外から東京をみたこと。
よりどころのない土地で、一人暮らししたこと。
この時に持っていた、モヤモヤした感情は、この歌の中の本質とすごく共鳴したんだ。
そのことのほかに、自分が五行歌なり、文章なりで表現したいもの、詠いたいものも、まさしくこの「叙情」だと気づかされた。
こんなにも心を奪われ、揺り動かされるこの「東京」に秘められた「叙情」にやられたんだ。

自分もいろんなことを考えたり、思ったりするけど、そんなこと、うまく話せないし、話せる人もいない。
でも、歌や文章に書けば、誰か読んでくれる人がいるかもしれない。
そんなかすかな希望の光を持ちながら、いつも書いている。
話せないのに、書くのは平気なのは不思議でもあるけど。


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2016/01/05

2015年カウントダウン シルヴィ・ギエム ー ボレロ

昔、「愛と哀しみのボレロ」という映画を見に行った(はずだった)。
はずだった、というのも、私はその映画の途中、寝落ちしてしまい、ほとんど内容を覚えていなかった。
昨年東急ジルベスター(大晦日)コンサートとして、100年に1人の逸材、「バレエ界の至宝」と讃えられるダンサーの「ボレロ」がカウントダウンに選ばれTV放送すると聞いて、録画しておいた。
家のものとのチャンネル争いに負けたのだ。(後にライブで見なかったことが悔やまれる)
それくらいだから、特にバレエに詳しいわけでもなんでもない、ただの好奇心からの録画だった。

初めて見た、ギエムの身体は驚くべきものだった。
50歳と聞いたが、天性の骨格が、鍛え抜かれた筋肉に包まれて、細く、しなやかで鞭のような身体。
腕を振り上げる、脚を振り上げるだけで魔法にかけられたよう。
赤く丸い舞台で踊るギエムは、巫女のように見えてくる。

今でも、ふとした時に、ボレロのリズムが聞こえてくる。
まさに中毒性のリズム。
ジャンプ、弓なりのポーズ、全てに魅了された。
ご覧になってない方に、ぜひ紹介したい。

カウントダウンボレロ(YouTube)


他のダンサーのボレロも見比べて見て、それぞれの良さがあるけれども、ポーズの美しさは断トツである。
2014年に、50歳になる2015年に引退公演を決めたこと、華やかで個性的な経歴、知れば知る程魅力的な伝説のバレリーナであった。

シルヴィ・ギエムまとめ

年明けから毎日1回は見てしまうのであるが、この舞台、踊りはアスリートの演技に似ていると思った。
例えばフィギュアの羽生結弦の演技を見るような、技術力と表現力。
言葉を超えた身体をつかった表現の力に、言葉でないところで共鳴する。

ボレロのリズムのように、最初はギエムを、次はまわりの群舞を、その次はオーケストラの演奏を、集中をずらしながら、もう1回、もう1回と見返したくなる。

あまりに、言葉を失くして見つめつづけたからこそ、猛烈にこの紹介文を書きたくなった。
そして言葉を超えたコニュニケーション、表現に打ちのめされるのも、それはそれで至福だと思った。
時には言葉を捨てて、踊るが良い。
人が踊るのは本能。

ギエムのように踊ることはできないし、誰に見せるわけでもなくとも、自分の踊りを踊ることは大切だし、無くしたくないと思った。

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