真実を書くことについて
2月15日(土)のAQ五行歌会で、草壁焔太先生にお越しいただき、『真実を書くことについて』お話していただきました。30分くらいのお話のあと、みなさんの感想や質問などを伺いました。
お話にあたって、A4で4ページのテキストを用意してくださいました。一部紹介いたします。
こちらは全文月刊『五行歌』3月号の先生の日誌のところに掲載されております。ご興味のある方は後ほどご覧くださいませ。
・ 日本人は古来「まこと」という言葉を大切にしてきた。・ 歌の道では、松尾芭蕉の「風雅の誠」という言葉が至上のものとして扱われた。
・ 本居宣長の「真心論」、二元論を否定し、理想とした「上つ世のまこと」とは、「事、言、心が一体となった素直な状態の世」ということと考えられる。
・ 心によって真実が異なる。真実といってもいろいろある。
・ 本当と、本当に伝えたいこととはずれてくることがある。・ 誠をどう決めるか、無限の真実がある→真実無限、感性無限→むつかしい。
・ 歌を書くむずかしさは、真実を見つけ出すむずかしさ。・ 無限にある真実の中で、読む人が豊かな気持ちになり、広々とした気持ちになり、自由になり、人がそれを抱えて生きていきたいような真実を。
・ 人を追い詰めるのは、うたびとの求める真実ではない。人をいきいきさせるものが、うたびとの真実ではないか。
お話を聞き終わって、「真実を書くことは難しい」という結論になりましたが、少し安心した面もありました。
私自身の疑問として、「ここ本当はAなんだけど、Bにしたほうがわかりやすいし歌としていいな」はいけなんだろうかということがありました。
私の疑問にかおるさんの喩えが秀逸でした。
富士山の絵を描こうと思って、写生に行ったときに、ほんとは電線が見えていたんだけど、それは省いて描く。 本当は、鳥はいなかったんだけど、鳥を飛ばしてみる。 そのことは、描こうとした富士山のうつくしさの真実を表現することに必要ならば、その絵も真実になる。
私自身も質問しました。
それは、当事者以外の人が歌を書くことについてです。
「たとえば、震災の被災者がうたを書く、そのTVの映像を見て第三者が歌を書く。話を聞いて書く。
当事者ではないけれど、大きく感情を揺り動かされ歌を書きたい衝動がわくが、当事者でないものが書くことにも躊躇もある。」
それに対して、先生からは「それはもちろん書いちゃいけないということはない」
ほかの参加者から、「当事者でないのに、当事者のように書かれてあとで誤解したりがっかりすることもある」
「わたしは友人の書いた映像を見て書いたという歌に心を揺さぶられた」
などいろんな意見も出ました。
見て書く真実、聞いてかく真実もある。ただし、見て書いてるという意識は必要じゃないかと。
勘違いしないようにしないと。
真実は無限にある。それが私がいちばんそうかそうかとほっとしたところでした。
自分で無限の中の真実を描いて見せること。
ああ、それができたらなぁと憧れるし、目標になりました。
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