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2012/03/21

鼓の呼吸

20日はワセオケ第193回定期演奏会、今回の会場は六本木のサントリー大ホール!
2月から3月のヨーロッパツアー総決算と、卒業する4年生最後の舞台ということもあり、ホールも一流♪

開場時刻になると、正面扉の上部の板が開いて、オルゴールが流れるのね~♪
ぼーと見ていたら、閉じてしまって、あれ、あのときだけだったんだ! と写真取りそこねてちょっと残念。

パンフレットには、曲目変更とあり、
R.シュトラウス アルプス交響曲 作品64
R.シュトラウス 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
1曲めも別のシュトラウスの予定だったが、代わりに三曲目として、由谷一幾「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」となっていた。
これは、ベルリン公演で好評だったため、その成果を披露するという意味で変更になったもの。

アルプスもいたずらもすばらしいのだが、けっこう何回か聞いていたので、新鮮味という意味では最後の和太鼓がすばらしかった。
今回座席がバックヤードのA席で、見下ろすとオケの後ろ。指揮者の表情はよくみえる。いつも奥まっているパーカッションが目の前。大太鼓もすぐそこにあった。
指揮者の横に、2人の奏者がいて、それぞれ和太鼓の小さいのが3つほど、そのほかに縦置きのたいこが2-3個あった。こちらはOB、OGだったようだ。
後方のパーカッション部隊も、鉦やすずやら、和風な楽器に持ち替えて、もりあげていた。

大太鼓の演者というのは、指揮者にも他の演奏者にも背中を向けてばちをふるう。
全身で音やリズムを聞いて、大きな曲の流れをひっぱっていく。
遠くに仲間の小太鼓の音がして、それがリレーのように、信号のように、別の鼓の振動に受け渡されてゆく。

太鼓の音というのは、身体が反応する。弦の音では揺れないスイングが自分の中に生まれる。
下町っ子の血なのか、そもそも日本人のDNAなのか。
オーケストラをひっぱっていく太鼓が、めっちゃかっこよくて、ほれぼれした。

演奏が終わって拍手を何度も繰り返す間、ソロパートでがんばった人が立って喝采を受けるシーンがあるのだけど、他の仲間も力いっぱい拍手しているのね。その表情が今回すごくわかった。
全部の演奏が終わった後も、パート仲間と握手している人がいた。
もしかしたら、4年生なのかもしれない。いろんな思いがこみ上げているんだろうなと見ていて思った。
バックヤードもたまには悪くない。

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2012/03/18

日曜美術館 ゆるむ・ひらく・アートの旅~青森編~

日曜朝9時からのEテレ日曜美術館をいつも楽しみにしているが、今日は特別編だった。

ゆるむ・ひらく・アートの旅~青森編~と題し、雪の青森へ須藤元気さんと水野美紀さんが2つの美術館を訪れた特集。

なぜ青森? なぜ真冬? と思った謎は見ているとまもなく解ける。屋外の彫像は雪をまとったときに、別の表情をみせてくれる。

須藤元気さんは、青森県立美術館で、まずはシャガールの舞台絵なるものに対面する。
舞台の背景に掲げられる幕のような布に描かれた大きな作品が、三面に展示されたひろびろとした部屋。
馬や浮遊する人物など、夢の中の世界。
須藤さんは、「頭で考えて描いてない」と感想をもらす。

シャガールの絵は、細かいつじつまなんてまったく合ってない。だから夢をまるごと写しとったような感覚が生まれる。包み込んで、ひっぱって、不思議な世界に引き込まれる。

もうひとつの印象的な作品は、奈良美智の「あおもり犬」。青森県立美術館に写真がある
これが屋外に設置された効果は、真冬に浮かび上がってくる。
足元に、うなだれた頭に、こんもりと雪が積もって、じっと耐えているような、それでもそれを乗り越えて達観しているような表情になる。
まるで傘地蔵を思わせ、おもわず手を合わせるご老人もいるらしい。半眼の表情も、なにかを背負っている姿勢も、雪をかぶった姿をみたら、おもわずうなるものがあった。
作家はこの犬が雪を抱くことを想定していたんだろうか。いや雪がなくても、青森に暮らすことを形で表したのかもしれない。そこに雪が加わってさらに作品に輝きをもたらしたかのような。

女優の水野美紀さんが訪れたのは、全国からファンが訪れるという十和田市現代美術館。エントランスの4mの女性像が見下ろしてくる。
「ザンプランド」という作品をつくったアーティストの栗林隆氏がメンテナンスのため、訪れていてお話を聞けた。
栗林氏は、「ボーダー」を自分の中のテーマにしており、こちらの作品も、下の真っ白い部屋から、椅子に上って見る湿地帯のコントラストが鮮やかなふたつの世界を表している。
美術館のサイトでも、湿地帯の写真は出してないのであまり書くのは遠慮しておこう。
みてるこちらも、「おー!」となる。

水野さんは、「自分の感覚をぎゅぎゅっと押してくれる、広げてくれる」という感想を話していた。

はっとさせられたり、自分の常識をひっくり返してくれたり、アートと出会う楽しみは、たしかに「刺激」という要素はあるなと思う。
わたくし事だが、一見、不可解なものを見せられた時、最初は感性で見るのだが、だんだん意味を求めてしまうことがある。意味が見つかると安心しているんだろう。意味がわからないと気持ち悪くて、なぜわからないのかがきになったりする。

「考えるな。感じよ!」と言ったのはブルース・リーだったか。

けっきょくは、意味が見つからないと、=わからないと認めることになって、そこからまた感性で見ることにもどる。
言葉のない世界に自分を浮かべてみる。
先のシャガールは、そうとらえているような気がする。

わからないまま、とおりすぎるのもありなんだろう。時間がたつと変わるものもあるかも。
今の自分のフィルターで見てるから、ひっかかるものはそのときによって違う。
味覚も変わっていくように、好きなもの、見えるものも変わるのかもしれない。

作品と対話する楽しみ、わたしもアートの旅を続けていきたいと思った。

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2012/03/09

読書ノート 『なぜ君は絶望と闘えたのか』

1999年山口県光市で起きた当時18歳1ヶ月の少年による凶悪な殺人事件が、2012年2月最高裁により死刑判決が確定した。久しぶりにTVで会見する本村氏のゆるぎない姿に改めて、事件を振り返りたくなった。

ずっと前に録画していた、WOWOWドラマW「なぜ君は絶望と闘えたのか」を見る。前編、後編と長くてずっとみそびれていて、前編だけでもと思ったら、ちょっと倍速にしつつ全部みてしまった。
これは光市母子殺害事件をもとにした、同名のノンフィクション小説をドラマ化したもの。登場人物は全部仮名におきかわっているが、それ以外は事実に則したものとなっている。

ニュースやインタビューで見る本村さん(ドラマでは町田さん)は、いつも自分の考えを明確に話せる強い人という印象があったが、やはり何度も死のうと思ったり、仕事もやめようと思ったり、妻との思い出の曲を街中で聞いて、号泣してしまうような方だった。
彼の勇気ある「いまの司法はおかしい」という発言は、被害者や被害者家族の立場がないがしろにされている問題を明らかにして、政府をも動かした。そしてその行動が、多くの支援者をも動かした。

また、このドラマで、ずっと寄り添って取材をした記者(原作本作者)と本村さんとの交流が印象的だった。本村さんは、山口市に住んでいて、実家は北九州。記者は東京にいるが、何度も取材して、励まして、心を開いて話を引き出している。この話は、事件が起こった1999年に起訴があり、2008年死刑判決(その後上告)まで9年ほどひとつの事件を追いかけている。記者、というもの、ノンフィクションライターはそういうものだ、と言われてしまえばその通りなのだが、プロフェッショナル魂には舌を巻く。

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このドラマの原作が、門田隆将氏『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』新潮社2008。
プロローグは、本村さんが記者に「絶対に殺します・・・」とつぶやいたシーンから。
わたしがこの事件と、本村さんを知ったのが、TVの報道で、「(少年法によって司法が死刑にしないのなら、)わたしが殺します」と言ったのを目の当たりにしたときだったからだ。彼の主張は真っ当で、同じ立場だったらわたしもそう思う。そのショックの大きさは想像もできない。彼が辞表をかいたり、自殺しようとした気持ちも痛いほど伝わる。

本村さんは多くの人たちに支えられて、絶望と闘った。でもそれは、本村さん自身が「信念」という太くて高い柱を立て、掲げ続けた結果だと思う。その旗印に、全国犯罪被害者の会が集い、政治や司法を動かし、「犯罪被害者等基本法」ができた。
被害者や遺族がすべて本村さんのように動けるわけではない。でも、その被害者や遺族の生きる道ひとつの道を示してくれた。何ができるか、考え続け、あきらめなかった信念の輝きはまぶしい。

本は、ドラマでは省略されているところが、細かくレポートされていて判決文などもきちんと掲載されている。
ドラマは、記者と町田さんの絆が強くでているが、本の中では記者(作者)はほぼ黒子に徹している。

作者は、犯人のもと少年にも面会して様子の変化も書いている。死刑宣告を受けなければ、この変化はなかったのかどうか。少年犯罪、死刑の是非、いろんなものへの問題提起をした、本作品は渾身の記録だと感じた。


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2012/03/05

読書ノートぽいけど相変わらず寄り道 『ごはんのことばかり100話とちょっと』

ちょっとしたすきま時間に、よしもとばななさんの『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読んだ。ひとつの章が短いので、ちょこちょこ読みに便利な本。

ばななさんは、とてもくいしんぼということもあり、いろいろおいしそうな食の話と、それをとりまく人間の話がおもしろい。ずっとあたまでっかちの暮らしをしてると、ばななさんの地に足がついた、妙に生臭い生活の機微にひきこまれる。

その中で、義理のお父さんが暑いし重いのにモモをおみやげに持たせてくれて、結局駅で捨てた話があった。

人生がきれいごとだったらどんなにいいだろう。(中略)
そんなことはどうでもいいからそっとしておいてくれ、だめなままでいさせてくれ、胸が苦しくてもすれ違ったままでも愛してると思わせてくれ、と私はきっと老後にも思うだろう。

ちょっと前に、どっかで読んだ「FBリア充自慢だらけ」って記事も頭にひっかかって。
いいね! で励まされるけなげな私と、いや、いいね! とかもういいから、自由にだめだめさらけ出させてくれという葛藤の中、わたしはちきりんさんの

「伝えたいことがある」のに、自分のリアルの仲間だけに話しかけるFBとか超無意味。

に大きくうなづいたりもして、そういえばずっとブログ書いてないやと思い立ち、わがホームタウンに駄文を記した次第であります。
FBにレ・・連携なんかしないんだからねっ!!

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