昨日歌会や二次会で出た話題の中で、歌と作者と評価の関係というのがあった。
話題としては、何度もとりあげられているけれど、稲田さんがおっしゃってた言葉があたまに残っている。
「作品は作品で見ているから、その先の作者がどういう人であるかということまでは踏み込まない。
作品からプロファイルはしない」
作品は作品としてみてほしい、作品から妙に勘ぐって、やぼな質問をしないでほしい、とつねづね思ううたびとたちにとっては、いちばん理想的な読者の姿勢だろう。
自分はどうかなと考えてみた。その話をしているときと、その後でも。
◇読み手の立場として。
作品(五行歌)を読んで、この人はこういう考えを持ってるんだ、こういうものをよしとしているんだ、ということは感じるし、考える。つまりは、歌とぴったりくっついた作者の一部について、思いは馳せる。
特に、日常を素直に詠ってる親しい方には、「こういうことがあったの?」と思わず聞いてしまうことがある。
病気の歌があれば、会ったことがない人でも、「大丈夫かしら」と思ったりする。
会って話す以上の本音がそこに語られている、とどこか思っているからだ。
でも、それは作者の一部であって、全部ではない。
一生その考えかというとそうではなく、その歌をつくったときの思いなのだ。
この作者だから成り立つ、許せるみたいなこともあると思った。
それは前にも話題になったかもしれないが、「当事者かどうか」ということ、詠ってるそのものへの信憑性。
歌の力を裏打ち、太鼓判を押してくれるのがその作者の背景=プロファイルというところか。
だがそもそも作者の背景をしらないなら、その裏打ちは効かない。
作品そのものに力があったらなら、詠み人知らずの歌のように、人々の記憶に残るわけで。
つまりは初めてみる作者を、公平な目で見られる。純粋に作品力だけの勝負。かっこいい。
◇詠み手の立場として
もちろんベースは、作品は作品としてみてほしいのだけど、歌には、どこか「わたしを分かって」という訴えが無意識にしろ潜んでいる気がしてならない。 この出来事をこのように感じた自分、その思い、それを伝えたいという表現欲みたいなものが。
詠わずにいられない。
とにかく言語化したい。
作品の中に、自分はすでに入っているわけで、そこを感じてくれれば十分だ。
上に書いた「読み手」と「詠み手」のことを並べてみると、ぴったり重なることに気づく。
ああ、自分は読んで欲しいように、詠みたいのだな、と。
いや、読みたいものが、詠みたいんだ。
ぐるぐるの回り道は、もとへ戻る。
あたりまえのことを、無意識から意識するために、わたしのぐるぐるは続く。
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