無意識に知らされることで奪われているもの
昨日の記事の続きになるが、東京都写真美術館では、植田正治ワールド(3F)との出会いと興奮さめやらぬまま、2Fの「写真展 岡本太郎の視線」へと降りていった。
(後からおもえば、この展示のタイトルは、なんと的確なのだろう。)
岡本太郎の1930年代パリ留学時代に親交があったという、ブラッサイ、マン・レイやロバート・キャパなどの写真から展示は始まる。
また、岡本太郎が日本各地をカメラを持って取材旅行し、雑誌に記事を掲載していた写真群。そのエキサイティングな文章(主に岡本敏子さんによる口述筆記)とともに、紙面をにぎわしていた。雑誌の実物、プリントをパネルにしたものが壁面に飾られていた。
印象的だったのは、やはり秋田のなまはげ、かまくら、沖縄の踊り、四国の阿波踊りなど。
目に飛び込んでくるものをめちゃくちゃに撮ってるような印象がある。
構図もなにもかまわない、素の視線の熱っぽさが伝わってくる。
ただ、わたしにはこれらの写真をみて、なんとなく物足りなさが残った。
わたしたちは、それらをもう見知ってしまっている。
秋田のなまはげがどんなものか、TVで動画を見ている。
そこには、めずらしいものがない。
当時の人たちは、交通手段が乏しいことから、遠いところの生活習慣を知る機会が少なかったろう。
これらの写真は、驚きとともに迎えられたに違いない。
でも今のわたしたちには、これらのプリントから得られる情報は少ない。
これを撮った人の興奮を感じさせることはできても。
(ここで展示テーマに深くうなづく)
わたしたちは、常にいろんなことを知らされてしまっている。
苦労して、初めて知るチャンスを多く失っている。
わたしが初めて見た植田正治の方が印象が強かったのも、そのせいのように思う。
無意識に知らされていることで、多くの感動をわたしたちは奪われている。
よかったのは、映像。
奥にスクリーンが3つ。
音声がでているのは、岡本敏子さんと、写真研究家?の方が岡本太郎の使っていたカメラについてお話しているもの。
あとの二つは、無音の字幕で、岡本太郎氏のインタビューと、岡本敏子さんのインタビューだった。
(岡本太郎は、インタビューアーが的外れな質問をすると、よくこういったという)
「シー! トゥー! トゥー! トゥー!」
「全部だ!」
全人間的に生きたいというのが彼の願いだったと。
職業とか学問の分化を嫌った。そういえば、彼は民俗学を学び、哲学も学んでいた。
トゥー=全部
人の専門を気にする人が多くて、ますます専門を分割する風潮の中で、流れに逆らっている人がここにいた。
まるごと全部、という考え方がこの展示の一番のおみやげになった。
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