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2006/01/26

本音という日本語のこととか

去年の年末から今年にかけて、なんだかさえない感じが続いている。
昨日何が足りないんだ? と考えてみたら、本を読んでいなかった。
本の代わりにビデオやTVを見すぎた。

必要な用事をすませてから本屋と図書館と回る。

めぼしい本をいくつか手に取りながら、村上龍のエッセイを何冊か立ち読みしていてついついぐんぐん読んでしまう。
奥付をみると、10年も前の本だ。
このひとは10年も前から同じことを繰り返し語っている。
ひとつのことを浸透させるためには、10年繰り返してもむずかしいってこと。
何十年も語るタフさが必要だ。
そしてそこまで変わらぬ信念も。

1999年の記事に、「きっかけは別にありません」というのがある。
数えきれないほどのインタビューを受けてきて、いつも最初の質問が、きっかけについて聞かれることが多く、ずっときになっている、とある。
(最近知った、13歳のハローワークのサイトのインタビューでも、「この本をつくろうとしたきっかけは?」と聞かれていて笑ってしまった。6年前から嫌気がさしていることを、今でも言われてるのだ。)

そもそものきっかけ、というものは、特別な才能や努力がなくても基本的に誰でも手に入るもので、それはそのへんに常に転がっていて、成功しなかった人はそれを手に入れる気がなかっただけというニュアンスとアナウンスは、人生の敗北者にとって貴重だ。~『すべての男は消耗品である。Vol6』 村上龍著 KKベストセラーズ
そう、インタビュアーは成功者に、あなたはなぜ成功したのですか? 成功の秘訣を知りたがっているのだ。

それを知ることで、自分への励みになったりすることがごくふつうの人々だろう。自分ももしかして、という根拠のない自信(笑)につなげることができるかもしれない。
でも村上龍はシビアに指摘する。
自分にもいいきっかけさえあれば、と思うだけで頭も体もつかわずにいたら、永遠にそこへはたどり着けないのだよ、というメッセージがびりびりくる。

日本語で建前と本音と言うときに、それは誠実とか誠意に関係なく、自分の利益を隠すか隠さないかの違いでしかない、という指摘をしたのは片岡義男だった。  本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。

 すごく「本音」の本質をついている。鮮やか過ぎて打ちのめされる。
 
 あれこれ読んで思ったことは、自分もいい人をやめて、もっと精神的不良になってみたい、ということだ。
 以上。
 

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