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2005/09/26

ここから、いまから。

昨日のことをずーと頭の中でころがしている。
いくつか思いついたことのメモ。

・選者というのは、広い間口を持っていることが多くのうたびとを救う。
 (間口というと誤解があるかもしれない。知識とか将来を見据える目とか心の広さみたいなもの)

・ときどき、「千年先でも残る歌が詠みたい」、という方がいらっしゃるが、わたしはそう思わない。
 千年残ったかは、結果だ。
 最初から千年残ろうと思ったわけじゃないんじゃないかな。

・わたしたちの先輩は、どういう時代を生きて、どういう歌を詠んできたか。
 わたしたちは、どういう時代を生きて、何を詠うか。

・時代をよめ!

・自分を救え!

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コメント

◇ま のすけさま

 ま のすけさんのおっしゃることは、すごくもっともだと思いました。

>最初から千年残ろうと思ったわけじゃないんじゃないかな。

これは違ってるわけですね。
推敲過程から百年くらいは残ろうと思う気持ちはあるということは理解できます。
ここで言いたかったことは、詠う動機の優先順位の問題で、残す、を一番にしたくないぞ、わたしは。という話がしたかったのです。二番は残るでもいい。(笑)

 この記事を書いた後、草壁先生の『飛鳥の断崖』を読んでいたら、P222に「五百年後の読み手に向かって書け」という言葉を発見しました。(^^;;;

 詩歌人とは、前後三千年を生きる人のことである。

 これを読んでもなお、わたしは、ポケベルを歌ってもいいと思ってます。それは、その時々の「流行を追う」という意味ではありません。問題は、ポケベルという言葉ではなく、そこから出てくる思いが普遍的なメッセージとして響くかどうかだから。
 
 6月くらいから、「当事者の立場で詠うことについて」考えていたのですけど、わたしたちは、今という時代の当事者だと思うのです。今の私たちが今の時代を詠わなかったら、誰も当事者として詠えません。
 この時代に何がはやって、何が愛されて、どういう風潮があったかも歴史の一ページになる。
 歌としての格は落ちるのかもしれないけど、古びてしまいそうな言葉だからといって、そのときの思いまで消し去るのはあまりにむごい気がしてしまうのです。

 ウタを自分自身の足跡とも考えると、伝えるのが同じ世代を生きたたった一人の人でもいいと思ってます。

 なんていうか、ウタを詠む時に、なにか狙いすぎというか、邪(作為的)でありたくないという気持ちがわたしにこの記事を書かせたように思います。(もちろん、ま のすけさんの作歌方法が、作為的という意味ではありません。念のため)

 同じことを繰り返すようですが、千年残る歌を残したい(=名前を残したい)から歌を詠みたいというのは本末転倒だという話です。
 純ちゃんが、「歌を詠む動機はもっと別なところにある」と書いてくれたように。
 まず、思いありき。常にそうありたいと願っているのです。
 ウタを詠んで推敲して、どこかに届けたら、あとは野となれ山となれ、という気持ちでいいんじゃないかということです。
 時代を超えて人の心に届くものがそのウタにあれば、結果はおのずとついてくるのでしょう。

投稿: しづく | 2005/10/07 22:25

 千年なんて欲張りません。 せめて百年・・。(笑)

 自分の場合、俳句を詠む(あるいは練る)際に、それを思うのですが、
 残す為には、モチーフとなる題材自体が錆びないこと、また、
 使う言葉をよく吟味すると云うことにも繋がっています。

 例えば、「ビートルズ」は、これから百年でも残るでしょうが、
 「V6」(あくまで例ですゴメンナサイ)とかだったらどうでしょう。
 『ポケベルが鳴らなくて』というそこそこ流行った歌が在りましたが、
 今では、「ポケベル」って何? といったところでしょう。

 残る残らないは、仰る通り、あくまで結果でしかないのでしょうが、
 作句の段階で、消えそうなものを捨て去り、真剣に吟味するという
 姿勢そのものは、自分はやはり大切なことだと思ったりしています。

 句が残るということは、自分の中では、広く人口に膾炙するという
 ことよりも、誰か一人でも、100年前に詠んだ自分の俳句に触れて、
 何か少しでも心動かすものがあったらいいなぁと、そんな感覚です
 から、う~ん、出来れば一句でも二句でも残ってたらいいなぁ・・。(微笑)

投稿: ま のすけ | 2005/10/06 18:06

◇道子さま
 うーん? どんな電話なのかわからないですが、あまり気になさらないほうがよろしいかと。(想像でものを言ってます)

◇純さま
 おー! 打たれました。
 たしかに似てるかも。
 いい歌を詠みたい、というのは素朴な希望だけど、それが目的になっちゃおかしいってことですね。んだんだ。

 歌を詠むときに「いい歌にするぞ!」みたいな邪さがむんむんしちゃうと、「くさい歌」になる気がする。
 この思いをどうにかして人に伝えようとか、ふさわしい表現を選ぶ、というのは、また違うこと。

 邪(よこしま)はよくないけど、人はしばしば邪だ。(笑)
 
 

投稿: しづく | 2005/09/30 18:20

お邪魔します。

>・ときどき、「千年先でも残る歌が詠みたい」、という方がいらっしゃるが、わたしはそう思わない。

これは具体的な数字(年月)で言われるセリフだけれど、
「いい歌を詠みたい」とか「名作を書きたい」とかも同じだと思う。
いい歌にしろ名作にしろ、結果だもの。
歌を詠む動機はちがう。もっと違うところにある。

以上、呟きでした。

投稿: 純 | 2005/09/29 23:36

ありがとうございます
全国大会が近づくとまったく力などないわたしにも色々電話がかかります。

闊歩して
童話が完成
生きるとは
このことだ
今は心の狭間もない

わからないことはきっぱりと。別のことに闊歩していました。

投稿: 道子 | 2005/09/28 13:42

◇道子さま
 これは、25日の第二部の対談で、奥村晃作さんが、師の宮柊二さんのことを、「宮柊二先生が自分を認めてくれなかったら、自分(のただごと短歌は)はなかった」というお話をされたのです。そこから考えたことです。

 でも歌会参加者同士の場合(互選)でもあてはまると思って書きました。

投稿: しづく | 2005/09/28 12:25

質問
 選者とはその歌会の参加者のことですか
一般に選者は任命権者の選定で誰にも口ははさめないのでないとおもっているもので。
任命権者については複数の公の認められた人のこともありますけれど。

投稿: 道子 | 2005/09/28 11:51

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