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2005/04/18

希望。

yoshimotobanana.com。
このところ、この本を何度も読み返している。
いつものぞいてるサイトのうちの一つ、よしもとばななさんのサイトの過去ログを編集した本だ。
何が素晴らしいって、Q&Aのばななさんの回答が好きだ。
公式サイトにも、一部乗ってますので、興味のある方はどうぞ。)

ぴりっと簡潔で、ゆるぎなくて、さっぱり男前な回答。

おもわずうなる。

私は希望が好きだし、そういうものを書いて行きたい
、というような発言にこくこくしている。
(あれ? この本だったかな?)

そういえば、昔より私も明るいものが好きになったかな。(昔は暗いものがかっこよくみえてたような気がする)
今の時代、どう生きるか。
先の見えない、問題が山積の未来をどう生き抜くのか。
暗いものを見つめて、うなだれて過すのか。
明るい何かを必死に信じて、前へいくのか。
愛するものをどうやって守るのか。

そう考えると、わたしもやっぱり希望の中に身を置きたい。
光の射すところへ向かっていきたい。

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コメント

◇たかしさま

 思いの足跡を伝えてくださって、ありがとうございました。
 できることをやろう、という気持ちは入っていると思います。
 
 この記事を書いたときの思いは、4/14のばななさんの日記に書いてあることがズバリでした。

 「人生はJOYだ。そう思うことだけが反逆なのだと思う。」

精神の矛先をどちらに向けるか。マイナスになる力が強い世の中では、プラスに向けるのにはエネルギーが必要に思います。
 それをよしもとさんは「反逆」と言ってくれて、「ああ、そうだ」と思いました。
 自覚的でありつつ、へこたれないタフさがほしいと思うのであります。

投稿: しづく | 2005/04/24 20:57

確信もなくコメントします。

希望は“希望”の中で“希望”に向かって語られないと
それこそ着地の浅い、甘い発言になってしまうのではないでしょうか。
“絶望”と対比させて、「ほら、こっちのほうがいいでしょ」
というものでもないような気がします。

底なしの絶望に落ちたことはないし、究極の希望に出会ったこともない。
これって自分のことだけど、多分、多くの人が僕と同じじゃないのかなぁ。

おそらく、植物に向日性があるようにヒトには向希望性があるのでしょう。
「希望の光」という言い方は、これを裏づけているような気がします。

校歌というものには、必ずと言っていいほど「希望」の二文字が入っていて
高校野球などTV観戦しながら、試合とは関係なく“作詞”というものの
いい加減さと言ったら語弊がありますが、“定番性”を感じたりして。

変な言い方ですが、“トラディッショナルな希望”って何なのでしょうね。
それとも、希望もまた多様化し個の確立を迫られているのでしょうか。

「希望」というタイトルと、それに続くコメントを読ませてもらって
何か言いたい思いにかられたのですが、結局、何日たっても
何も言えませんでした。で、思いの足跡をお伝えしました。

音楽というか、歌なら、希望のイメージは『星に願いを』でした。
「でした」としたのは、いまは『ハナミズキ』だからです。
あれは“9・11”から生まれた慰めや願いなのだそうですが
僕にはそういう若い人の存在や活動こそ“希望”です。
自分でできれば、もっといいのですが。

「だから、微力でもやりましょうよ。できることを」というのが
しづくさんの提言であり、希望なのだろうな。と想像しました。


投稿: たかし | 2005/04/24 12:33

◇美雨さん
 絶望をし続けるのって、すごいストレスだと思うの。
 難民キャンプの子どもらの写真がすごくすんだ笑顔で、なんでこんなに笑えるのかなーって考えると、絶望することに意味がないからなんじゃないかな。
 赤毛のアンも、夢見ることで現実を乗り越えた。
 人の想像力ってすごいよね。
 希望もひとつの想像力かなーと思えるのです。

投稿: しづく | 2005/04/20 22:16

絶望の中には何も生まれませんね、人を支えるのは色んな意味での希望なんだと、確かに思います。
これまでの人生、絶望という程の経験はまだありませんが、もし、そうなった時、俯いてばかりじゃ大切な何かを見落としてしまうかもしれません。
足元を確かめつつ、未来を信じて生きていたいですね?

投稿: 美雨 | 2005/04/20 16:53

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